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Enrico1

Ōyama Enrico Isamu Letter

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Artist. Born in Tokyo, 1983, to an Italian father and a Japanese mother. Developed from visual language of graffiti, “Quick Turn Structure” is the recurrent motif of his work including painting, installation and mural. Currently lives and works in New York.

Responses

Enrico1

1 アーカイヴとキュレーション

 上崎千は、エッセイ「草月アートセンターと『印刷された問題』——もやしを貼りつけた案内状」 のなかで、アーカイヴにおける「コンポジション(選択された配置)」と「ジャクスタポジション(網羅的な並置)」というふたつの様態に触れ、前者が対象全体からある基準に沿って「選定」されたもののみを扱うのに対し、後者は、対象全体を漏れなく「羅列」するとして区別している。それはまた、あるアーカイヴが特定の意図された風景を立ち上げているのか、それとも情報の集積としてのみ佇んでいるのかという違いでもあるだろう。上崎はそれを「選択的なリストによって表現される虚構と、網羅的なリストによって記録される虚構との質の違い 」と説明する。

 ところで、コンポジションにおいては、選定基準がアーカイヴ後の風景=表現を決定するものであることから、わたしはそれを「アーカイヴ」ではなく「キュレーション」という言葉に置き換えてみたい誘惑に駆られる。しばしばキュレーターが、アーティスト・レジストリーなどのオンライン・アーカイヴから作家を探すように、あるいは美術館の展覧会がその所蔵作品から構成されるように、アーカイヴの存在とキュレーションという行為は密接な関係——ときに、包含関係——にあり、にも関わらず、別の水準に属している。 その関係はニュートラルなものではなく、ある不均衡な力学の傘下にあることに注意したい。キュレーションとは、それぞれ独立してある対象を、キュレーターが構想するひとつの物語に向けて編集し、意味づけし直すことであり、その蓄積はやがて大文字の「歴史」を紡ぎ出していく。つまりキュレーションとは、多かれ少なかれ、歴史に登録されるものとそうでないものを篩にかける権力として作用せざるを得ないということだ。アーカイヴが整備するフラットで滑らかなデータベースの地平に、地政学的な起伏とそれに準ずる序列化をもたらす行為が、キュレーションなのだと言ってもよい。

2 グラフィティのアーカイヴ的様態

 いま述べてきたアーカイヴとキュレーションの性質は、便宜上それぞれをモデル化したものであり、現実にはこれらは、相互に重なりあいながら複雑な編み目を成している。アーカイヴは少なからずキュレーションの要素を含み、キュレーションも——たとえばカタログなどのかたちで——結果的にアーカイヴの形成に寄与するからだ。また、その複雑さをいっそう強める条件として、コミュニティやジャンル間における「視差 Parallax」を考える必要がある。ここで言う視差とは、背景にあるリテラシーや価値観、コンテクストの差異により、ものごとの見え方やその評価基準が変化するさまだと考えておこう。

 グラフィティ とコンテンポラリーアートの関係は、この点について考えるうえで有効なサンプルとなる。グラフィティ文化そのものは、そのもっとも自然な状態において、アーカイヴの様態と親和性が高い。なぜならグラフィティは、違法行為として公共の場にかかれるため、短命であることを余儀なくされることが多く、したがって、その聡明期から多くのグラフィティライター たちは、自分たちがかいた傑作が消される前にきちんと写真に収め「記録」に残すことを心がけてきたからである。FLICKS(フリックス)と呼ばれるそれらの記録写真は、インターネットの登場以降はオンラインにもアーカイヴされるようになった。世界最大のグラフィティ系ウェブサイトのひとつである「アート・クライムズ 」は、淡々と画像のみをデータベース的に並置する構造によって特徴づけられる。ほかにも多数ある同様のウェブサイトやインディー雑誌は、当文化におけるアーカイヴへの志向性をよく示している。とは言え、グラフィティ文化内に序列が存在しないわけではない。ただしそれは、キュレーションのように外部からの操作によって「表現」されるものではなく、ストリートでの活動がもたらすコミュニティ内の「FAME(名声)」によって自然形成されるため、そのプロセスにおいて「選定」という契機(およびそれが孕む権力性)を欠いている。あるいはそれは、少なくともコミュニティ内での競争原理による自然淘汰的な「選定」であり、キュレーションによるそれとは異なると言うべきだろう。

Graffiti
ニューヨーク市内にかかれたグラフィティ(撮影:大山エンリコイサム、2011年)
Downbylow
ベルリンのグラフィティ雑誌におけるデータベース的レイアウト。 出典:DOWN BY LAW MAGAZINE, No.12

3 微細な力学の交通——グラフィティとコンテンポラリーアートのはざまで

 他方で、2011年にロサンゼルス現代美術館で開催された「ART IN THE STREETS」展 のように、コンテンポラリーアートの世界でグラフィティ文化が紹介される場合、そこには歴史を編纂しようとする外部からのキュラトリアルな「選定」が介在する。このとき、しばしば「視差」が発生し、グラフィティ文化のコミュニティ内における評価軸と、アートの側におけるそれの不一致が違和感をもたらし、疑問視される。たとえば、コミュニティ内で重要とされる作家が見過ごされる、逆にコミュニティ内では低評価の作家が、アートの視点から興味深いと思われ取り上げられるといったことは珍しくない。同時に、コミュニティ内における高評価がそのままアートの側における評価に転じる場合や、アートの側での評価がコミュニティ内の評価にフィードバックされる場合、また、そもそもコミュニティ内において評価に振れ幅があり、けっして一律に安定しているわけではない場合もある。さらには、グラフィティの世界とアートの世界のどちらにも完全には帰属しない、その境界線上で活動するアーティストたちの増加に伴い、新しい領域——通常「ストリートアート」と呼ばれる——が現れ始めており、グラフィティとコンテンポラリーアートという二項対立では現象を捉え切れないという状況はますます加速している。

 「アーカイヴが整備するフラットで滑らかなデータベースの地平に、地政学的な勾配とそれに準ずる序列化をもたらす行為が、キュレーション」であると先述した。グラフィティ文化とコンテンポラリーアートの関係を非常に単純化して言えば、前者をアーカイヴの水準、後者をキュレーションの水準と看做すことも不可能ではない。事実、グラフィティ文化の蓄積のなかから、アートの側がみずからの歴史に組み込む価値があると判断した作家や作品だけをピックアップし、吸収していくという構造は、大局的にはひとつの真実である。そのような「包摂」の仕組みは、コンテンポラリーアートの延命にあたって繰り返されてきた常套手段でもあり、美術史のなかに散見される。ただ同時に、アーカイヴとキュレーションの相互影響や「視差」の問題など、現実が、織りこまれた襞のように複雑な様相を呈していることもまた、ここまで概観してきた通り、無視されてはならない。大局的には一方向的な「包摂」であっても、細部においてそれは、微細な力学の多方向的な交通として生起している。抽象論ではなく、具体的な現象を丁寧に見つめるほど、そのことははっきりとしてくるはずだ。

Artinthestreets
ロサンゼルス現代美術館で開催された「ART IN THE STREETS」展の入口(撮影:大山エンリコイサム、2011年)

4 「/=隙間」に繁茂するサインの群れ

 ここで一度、議論を転回して、次の問いを投げかけたい——グラフィティ文化において、アーカイヴされているものは何か。それは「署名」である。グラフィティとは、みずからの名前を拡散的に公共の場にかき残していくこと、つまり「Name Writing」にほかならない。これは何を意味するのか。署名とは本来、ある生産物の「脇」に記載される。それは通常、あるプロセスが生産物としての輪郭を与えられ、社会へと登記されることを可能にする、言わば「完成」を示唆する徴である。ゆえに、それはアーカイヴ化の指標にもなる。ふたたび上崎の知恵を借りるならば、以下に述べられる「記載の場所」または「アーカイヴの肌理」こそ、署名が住まうべき空間ということになるだろう。

 カタログの各頁に垣間見られる余白、ポスター(の図版)によって占められていないこの場所は、ポスター(の図版)にとっての「外」である。そこには、各々が何のポスターなのかという説明が書き込まれており、この記載は慣例的に「シルクスクリーン、紙」あるいは「オフセット、紙」といった表記や寸法の表記を伴う。(中略)この余白が、本稿がその観測地点から目視している第二の「記載の場所」である。そして、各頁の内容と一緒に何度か印刷機を通ったこの余白の肌理こそが、アーカイヴの肌理である 。

 60年代末、グラフィティが誕生したときに起ったこととは、生産物とそれを外から補完する署名という主従関係が蒸発し、生産物なきままに署名のみが氾濫するというラディカルな事態である。その戦略は、生産物の「脇(余白)=外」という定位置を飛び出し、またキャンバスや美術館、印刷物をも飛び出し、リテラルな「(屋)外」としての「都市空間」をその舞台に選ぶことだけではない。むしろ、都市空間を含むあらゆる「外」がシステム内に包摂され、帝国的に管理される外部なきポストモダン社会のなかで、そこかしこのの「隙間」を標的にイリーガルな署名を穿ち、占拠することにこそ、そのミッションがある——奥まったビルの路地に、屋外広告の裏側に、階段の手すりに、サインの群れは滑り込む。上崎が言うように「アーカイヴは、/アーカイヴ/アーカイヴ/////……と多層化していく 」のであれば、グラフィティが企図するのは、アーカイヴが依拠する「/外」という階層化運動の撹乱、あるいは、その特権的な外部視点の消失である。  各階層を分離しつつ維持する線状の「/」は、氾濫するサインたちの違法な介入によってわずかに面的な「隙間」へと押し広げられ、その中立的な性格を失い、闘争の場としてみずからを定義し直す。ここで「/アーカイヴ/アーカイヴ/////」の区分は、イリーガルに拡張する「隙間=/」によって倒壊してしまう。

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70年代ニューヨーク地下鉄のグラフィティ。 撮影:Henry Chalfant 出典:Craig Castleman “Getting Up: Subway Graffiti in New York”, The MIT Press, 1982

 これは、都市空間で起こることに限定されない。上崎が「記載の場所」と呼んだ印刷物の余白もまた、それらが生い茂る「隙間」なのである。正しくは、「図版」と「余白」の主従関係を無節操に越境しながら、繁茂は進行する。それをグラフィティと呼ぼうが、署名と呼ぼうが、落書きと呼ぼうが、呼称はたいした問題ではない。重要なのは、このことが、アーカイヴとキュレーションの関係よりもさらに根源的なもの、すなわち、アーカイヴされ得るものと、され得ないもののボーダーへとわたしたちの思考を誘っている点にある。詳述は避けるが、それは匿名の問題に、厳密に言えば、匿名性という概念で囲い込むことのできる対象と、そうですらないもののあいだの、きわめて困難な線引きをめぐる問題に直結している。しかし、そのような緊張感に満ちた状態は持続しない。上述の描写は、おもに60年代末から70年代前半にかけ、ジャン・ボードリヤールが「からっぽの記号」と形容したグラフィティの胎動期にのみ当てはまる 。それ以降、文化の発展と成熟とともに、グラフィティはコンテンツとしての実体を強固に持ちはじめ、同時にある種の制度性を帯びてもいく。一方では、作家性に根差したレタリング のデザインを競うライター同士の表現の空間として、他方では取り締まりの標的である社会問題として、そのプレゼンスの高まりとともに、グラフィティは立派なアーカイヴ対象となっていった。

5 終わりに——署名された署名

 たとえば、次のようなことが起こるようになって久しい——ワイルドスタイル の見事なマスターピース がある高架下の壁にかかれている。それは、最大限のデザイン性と技術を注ぎ込み、制作に時間をかけられるように人目につかない場所を慎重に選んだうえで、そのライターの「名前」を複雑に崩したレタリングで表現したものだ。立体的なレタリングがさらに効果的に浮き出て見えるように、背景は黒く塗りつぶしてある。そして、そのバックグラウンドの右下には、作品の完成日とともに、きちんと作家の「署名」が記されているのだ——それは、署名にさらに署名が付されるという、いささか不思議な光景である。

 こうなれば、あとはもう矢継ぎ早にことは進む。署名に署名が付されたこのマスターピースはきちんと撮影され、アーカイヴ化される。その作家の作品集が刊行されれば掲載され、そこにはもうひとつの署名が、図版の外側の余白に記されるだろう。しばらくして、その本は美術館ライブラリの「ストリートアート」の書架に収蔵される(あるいは著名な作家になれば、彼/彼女自身のセクションがあるかもしれない)。そして、いつか回顧展が美術館で企画されることになれば、それらの写真や書籍は参考資料として展示されるはずだ。もちろん、その脇に、さらにもうひとつのキャプションをきちんと携えながら。

 そう、いつだって「脇」こそ、署名の本来の住処なのだ。

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アーカイヴとキュレーション

上崎千は、エッセイ「草月アートセンターと『印刷された問題』——もやしを貼りつけた案内状」 のなかで、アーカイヴにおける「コンポジション(選択された配置)」と「ジャクスタポジション(網羅的な並置)」というふたつの様態に触れ、前者が対象全体からある基準に沿って「選定」されたもののみを扱うのに対し、後者は、対象全体を漏れなく「羅列」するとして区別している。それはまた、あるアーカイヴが特定の意図された風景を立ち上げているのか、...

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1: Archive and Curation

 In his essay "The Sogetsu Art Center and the Matter of Printed Matter: The Bean Sprout Invitation,”(1) Sen Uesaki distinguishes two modes of archive, “composition” and “juxtaposition,” defining the former as composed of “selected” materials from all the potential elements by certain criterion, while the latter “lists” all the related elements without omission. Additionally, an archive composes a scene that corresponds to a specific subject, or stands just as an accumulation of comprehensive information. Uesaki explains this as “the difference in the degree of fictitiousness between representation that emerges from a selected list and documentation that emerges from a comprehensive list.”(2)

 In the manner of composition, as a selection criterion determines a scene = representation of an archive, I’m tempted to replace the term “archive” with “curation.” As a curator often searches for an artist via an online archive such as artist an registry website, or as a museum exhibition is composed of works from its collection, the act of curation exists on a different level from the archive in spite of their close relationship, which may be inclusive. The relationship, is not neutral, but is under a mechanism of unequal force. Curation is to edit and redefine the objects, which are originally individual, towards one story conceived by the curator, and as a result, its accumulation will program the “history.” Therefore, curation has to function as an authority that judges those who are going to be registered in history and those who are not. Curation is an act that brings geopolitical unevenness and its hierarchy to flat-and-smooth horizon of database that archive prepares.

2: The Archival Mode in Graffiti Culture

 The characters of archive and curation discussed so far are ones modeled simply for the ease of description. In realty, they overlap and intricately weave into each other. An archive includes elements of curation, and curation contributes to establish an archive, in form of a catalog for instance. In addition, there is a need to consider the function of “parallax” between communities or genres, as a condition that enhances this complexity. “Parallax” defined here is a situation where perspectives and criteria vary based on differences of literacy, value and context the background.

 The relationship between graffiti(3) and contemporary art is a good example for surving this issue. Graffiti culture has a high affinity with the manner of an archive due to its need to capture the ephemeral existence forced by its illegalness in public space. Many graffiti writers(4) from the early days of graffiti culture devoted themselves to photographing their masterpieces before they were erased. Those photographs called Flicks are also archived online after the emergence of Internet. "Art Crimes,”(5) one of the largest graffiti websites in the world, is characterized by its database structure that simply juxtaposes only images. Many other websites or indie magazines also show the archival intention of this culture. Even so, it can be hardly said that there is no hierarchy in graffiti community. Still, it is not a “representation” externally operated by someone outside of the community, such as a curator, but something that spontaneously forms by the criterion of “fame” in the community brought by activity in streets of each graffiti writer. Therefore, the graffiti community lacks the “selection” phase (and its accompanying authority) in the process. Or, at least, it is a “natural” selection process based on competitions in the community, which is different from that of curation.

Graffiti
Graffiti in New York City (Photo by Ōyama Enrico Isamu Letter, 2011)
Downbylow
A typical database-look layout in Berlin graffiti magazine. Quote: DOWN BY LAW MAGAZINE, No.1

3: Micro-power Effects: Between Graffiti and Contemporary Art

 In contrast, when graffiti culture is introduced to the world of contemporary art, such as the “ART IN THE STREETS”(6) exhibition held in 2011 at Museum of Contemporary Art in Los Angels, an external curatorial selection takes place in order to contextualize the history. In such occasions, a parallax often occurs and brings a feeling of misunderstanding and a mismatch of criteria between the graffiti community and contemporary art world. For instance, it is not rare that someone considered important in the community is excluded, or, by contrast, someone considered not important in the community is included, based on curiosity from the perspective of art world. At the same time, it is also possible that the high evaluation in the community converts directly to recognition in the art world, or the evaluation in the art world feeds back to that in graffiti community. There are also cases where an evaluation of a graffiti writer in the community varies and is not very stable. In addition, along with the increase of artists who belong neither to the graffiti world nor the art world completely, a new territory often called “street art” is emerging. It is getting more and more difficult to capture the situation in a simple dichotomy between graffiti and art.

 Previously, I described curation as “an act that brings geopolitical unevenness and its hierarchy to flat-and-smooth horizon of database that archive prepares.” If we are permitted to simplify the relationship between graffiti and contemporary art, it may be possible to consider the former as the level of archive, and the latter as that of curation. In truth, the structure of contemporary art, where “art” picks up only the artists and the works, which are considered valuable enough to integrate into art history, is also taking over the mode of comprehensive accumulation in graffiti culture. This system of “taking over” is a standard tactic that has been repeated to reactivate contemporary art, and can be seen in its history. Still, as I have discussed so far, the interaction between archiving and curation, or the issue of parallax, should not be ignored. Even if it is a one-directional “taking over” on the broader level, there are also multi-directal micro power interactions in the details. This gets clearer if we focus on the concrete examples instead of abstract logics.

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The entrance of “ART IN THE STREETS” exhibition at Museum of Contemporary Art, Los Angeles (Photo by Ōyama Enrico Isamu Letter, 2011)

4: Flooding Signatures in “/ = inter-space”

 Let’s shift the discussion to different phase and take one question. What is archived in graffiti culture? “Signatures.” Graffiti is an act of writing one’s name diffusely in public space. What does this mean? A signature is originally something positioned “beside” a product. It is a marker of “completion” that is given to the unfinished “process” to frame it as a “product” ready to circulate in society. Therefore, it works also as an index for an archive. Borrowing again from Uesaki, a signature also exists in this “place of consignation” or “the grain of the archive”:

…the places that are not occupied by the (images of the) posters—that is, the blank spaces that are visible in the margins on every page of the catalogue—function as the “outside” of the (image of the) poster. It is also here that we find a description explaining each poster. Notes on the printing technique, such as “silkscreen on paper” or “offset on paper,” and the dimensions typically accompany such entries… From our [archival] observation point in this text, the blank space is the second “place of consignation.” And it is the grain of this blank space, which has passed through the printing press several times along with the content on the page, that is the grain of the archive.(7)

 What happened when graffiti culture was first born in late 1960’s is a radical situation that signatures flood the city on their own, without belonging to anything else, removed from their subordinate position of supporting a product’s completion from the “beside / outside”. The strategy here is not limited to jumping out of the given position, and / or jumping into “city space” as real a “outside” out of canvases, museums and printed matters. In today’s postmodern society where there is no “outside,” including city space, within the system controlled under “Empire” (Antonio Negri), the mission of graffiti focuses on shooting illegal signatures to occupy tiny inter-spaces that appear everywhere “in between.” They slide into alleys behind buildings, on backside of public advertisements and along handrails of stairs. As Uesaki states, if “the archive becomes multilayered: /archive/archive/////… ”(8), then, graffiti attempts to derange the layering dynamism of “/outside” which an archive is based on, or to disable its privileged outside observer point of view. By the illegal intervention of the flooding of signs, a linear “/” that distinguishes each layer in an archive and keeps their relation, widens outwardly to a more planate “inter-space” and turns into a battlefield, all without losing its neutral character. Here, the partition of “/archive/archive/////…” collapses by the illegal expansion of “/ = inter-space.”

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Subway graffiti in 70’s New York City. Photo by Henry Chalfant. Quote: Craig Castleman ”Getting Up: Subway Graffiti in New York”, The MIT Press, 1982

 This is not limited to what happens in city space. The blank margin space of printed matters that Uesaki called “place of consignation” is also an inter-space where the signs proliferate. Moreover, this proliferation runs beyond the border of the master-subordinate relation between the “image” and the “blank margin space.” No matter whether it’s called graffiti, signature, or scribbles. Importantly, it brings our thoughts to the border of those which can be archived and those which cannot be. This seems much more fundamental than the border of archive and curation. Additionally, this matter is also directed at an issue of anonymity: these extremely difficult borders can be treated under the idea of anonymousness and those which cannot. This tension-filled situation, however, does not last for a long time. The explanation above fits only to the very beginning of graffiti culture, which Jean Baudrillard described as an “Empty Sign,”(9) from the late 1960s to the early 1970s. After those early periods, with its development and maturity, graffiti culture started to form its existence as “product,” and also established its institutional character as culture. On the one hand as an artistic practice that every writer competes his/her own designed-lettering(10) style with others, and, on the other hand, as a social problem that is target of crackdown effort, graffiti culture became a remarkable subject of archiving as it grew up.

5: A Signed Signature

 It has been a while since something like this can happen: there is a masterpiece(11) of Wild Style(12) graffiti on a wall under an elevated railway. This is the style expressing the “name” of the graffiti writer by complicated lettering style with the best design and technique of the artist, positioned in an out-of-sight location chosen very carefully in order to spend enough time to complete the creation. To make the already-three dimensional lettering pop out more effectively, the background is painted all black. At the bottom right of the background, along with the date of completion of the artwork, a signature of the artist is sprayed: this is a unique instance where a signature gets accompanied by another signature beside it. Then, things go faster. This signed-signature masterpiece is professionally photographed and gets archived. If an art book by this artist is published, the photo image will be included in it, and most likely, we will find an additional signature in the margin blank space external to the image itself. After a while, the book will be stored in a bookshelf titled “street art” in a library (if the artist is enough famous, maybe it will be under his / her own name). And, sometime in future, if the artist’s retrospective exhibition is organized in a museum, the photo and the book also will be displayed there as reference materials. Of course, with one more caption next to it. The “side” is always the real living space of signatures.

Notes

(1) Sen Uesaki “The Sogetsu Art Center and the Matter of Printed Matter: The Bean Sprout Invitation” http://post.at.moma.org/content_items/173

(2) Sen Uesaki, op.cit.

(3) Subculture initiated in New York and Philadelphia in late 1960s. Characterized as act of writing one’s name in urban space using aerosol sprays and markers. Recognized as an art form based on amount and location of writing as well as the originality of lettering styles. On the other hand, also its illegal aspect is considered as social problem.

(4) The name for practitioners of graffiti.

(5) http://www.graffiti.org/

(6) http://www.moca.org/museum/exhibitiondetail.php?&id=443

(7) Sen Uesaki “Around the “Places of Consignation”: The Archive and Yokoo Tadanori” http://post.at.moma.org/content_items/68

(8) Sen Uesaki, op.cit.

(9) Baurdrillard, Jean. ‘Kool Killer, or The Insurrection of Signs’ “Symbolic Exchange and Death”, 1976.

(10) As the practice of graffiti is name writing, its visual is basically combination of letterings uniquely transformed into three-dimensional mode.

(11) One of the main forms of graffiti. It is characterized by a degreed complexity in the shape and the colors as an artwork, sometimes very close to murals.

(12) One of the main styles in masterpiece of graffiti. Characterized by its complex three-dimensional letterings popping out. There is also a movie of same title Wild Style (Director: Charlie Ahearn, 1983) that captured the early days of Hip Hop culture.

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1: Archive and Curation

In his essay "The Sogetsu Art Center and the Matter of Printed Matter: The Bean Sprout Invitation,”(1) Sen Uesaki distinguishes two modes of archive, “composition” and “juxtaposition,” defining the former as composed of “...

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