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「記載の場所」を巡って ──アーカイヴと横尾忠則

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Enrico1

1 アーカイヴとキュレーション

 上崎千は、エッセイ「草月アートセンターと『印刷された問題』——もやしを貼りつけた案内状」 のなかで、アーカイヴにおける「コンポジション(選択された配置)」と「ジャクスタポジション(網羅的な並置)」というふたつの様態に触れ、前者が対象全体からある基準に沿って「選定」されたもののみを扱うのに対し、後者は、対象全体を漏れなく「羅列」するとして区別している。それはまた、あるアーカイヴが特定の意図された風景を立ち上げているのか、それとも情報の集積としてのみ佇んでいるのかという違いでもあるだろう。上崎はそれを「選択的なリストによって表現される虚構と、網羅的なリストによって記録される虚構との質の違い 」と説明する。

 ところで、コンポジションにおいては、選定基準がアーカイヴ後の風景=表現を決定するものであることから、わたしはそれを「アーカイヴ」ではなく「キュレーション」という言葉に置き換えてみたい誘惑に駆られる。しばしばキュレーターが、アーティスト・レジストリーなどのオンライン・アーカイヴから作家を探すように、あるいは美術館の展覧会がその所蔵作品から構成されるように、アーカイヴの存在とキュレーションという行為は密接な関係——ときに、包含関係——にあり、にも関わらず、別の水準に属している。 その関係はニュートラルなものではなく、ある不均衡な力学の傘下にあることに注意したい。キュレーションとは、それぞれ独立してある対象を、キュレーターが構想するひとつの物語に向けて編集し、意味づけし直すことであり、その蓄積はやがて大文字の「歴史」を紡ぎ出していく。つまりキュレーションとは、多かれ少なかれ、歴史に登録されるものとそうでないものを篩にかける権力として作用せざるを得ないということだ。アーカイヴが整備するフラットで滑らかなデータベースの地平に、地政学的な起伏とそれに準ずる序列化をもたらす行為が、キュレーションなのだと言ってもよい。

2 グラフィティのアーカイヴ的様態

 いま述べてきたアーカイヴとキュレーションの性質は、便宜上それぞれをモデル化したものであり、現実にはこれらは、相互に重なりあいながら複雑な編み目を成している。アーカイヴは少なからずキュレーションの要素を含み、キュレーションも——たとえばカタログなどのかたちで——結果的にアーカイヴの形成に寄与するからだ。また、その複雑さをいっそう強める条件として、コミュニティやジャンル間における「視差 Parallax」を考える必要がある。ここで言う視差とは、背景にあるリテラシーや価値観、コンテクストの差異により、ものごとの見え方やその評価基準が変化するさまだと考えておこう。

 グラフィティ とコンテンポラリーアートの関係は、この点について考えるうえで有効なサンプルとなる。グラフィティ文化そのものは、そのもっとも自然な状態において、アーカイヴの様態と親和性が高い。なぜならグラフィティは、違法行為として公共の場にかかれるため、短命であることを余儀なくされることが多く、したがって、その聡明期から多くのグラフィティライター たちは、自分たちがかいた傑作が消される前にきちんと写真に収め「記録」に残すことを心がけてきたからである。FLICKS(フリックス)と呼ばれるそれらの記録写真は、インターネットの登場以降はオンラインにもアーカイヴされるようになった。世界最大のグラフィティ系ウェブサイトのひとつである「アート・クライムズ 」は、淡々と画像のみをデータベース的に並置する構造によって特徴づけられる。ほかにも多数ある同様のウェブサイトやインディー雑誌は、当文化におけるアーカイヴへの志向性をよく示している。とは言え、グラフィティ文化内に序列が存在しないわけではない。ただしそれは、キュレーションのように外部からの操作によって「表現」されるものではなく、ストリートでの活動がもたらすコミュニティ内の「FAME(名声)」によって自然形成されるため、そのプロセスにおいて「選定」という契機(およびそれが孕む権力性)を欠いている。あるいはそれは、少なくともコミュニティ内での競争原理による自然淘汰的な「選定」であり、キュレーションによるそれとは異なると言うべきだろう。

Graffiti
ニューヨーク市内にかかれたグラフィティ(撮影:大山エンリコイサム、2011年)
Downbylow
ベルリンのグラフィティ雑誌におけるデータベース的レイアウト。 出典:DOWN BY LAW MAGAZINE, No.12

3 微細な力学の交通——グラフィティとコンテンポラリーアートのはざまで

 他方で、2011年にロサンゼルス現代美術館で開催された「ART IN THE STREETS」展 のように、コンテンポラリーアートの世界でグラフィティ文化が紹介される場合、そこには歴史を編纂しようとする外部からのキュラトリアルな「選定」が介在する。このとき、しばしば「視差」が発生し、グラフィティ文化のコミュニティ内における評価軸と、アートの側におけるそれの不一致が違和感をもたらし、疑問視される。たとえば、コミュニティ内で重要とされる作家が見過ごされる、逆にコミュニティ内では低評価の作家が、アートの視点から興味深いと思われ取り上げられるといったことは珍しくない。同時に、コミュニティ内における高評価がそのままアートの側における評価に転じる場合や、アートの側での評価がコミュニティ内の評価にフィードバックされる場合、また、そもそもコミュニティ内において評価に振れ幅があり、けっして一律に安定しているわけではない場合もある。さらには、グラフィティの世界とアートの世界のどちらにも完全には帰属しない、その境界線上で活動するアーティストたちの増加に伴い、新しい領域——通常「ストリートアート」と呼ばれる——が現れ始めており、グラフィティとコンテンポラリーアートという二項対立では現象を捉え切れないという状況はますます加速している。

 「アーカイヴが整備するフラットで滑らかなデータベースの地平に、地政学的な勾配とそれに準ずる序列化をもたらす行為が、キュレーション」であると先述した。グラフィティ文化とコンテンポラリーアートの関係を非常に単純化して言えば、前者をアーカイヴの水準、後者をキュレーションの水準と看做すことも不可能ではない。事実、グラフィティ文化の蓄積のなかから、アートの側がみずからの歴史に組み込む価値があると判断した作家や作品だけをピックアップし、吸収していくという構造は、大局的にはひとつの真実である。そのような「包摂」の仕組みは、コンテンポラリーアートの延命にあたって繰り返されてきた常套手段でもあり、美術史のなかに散見される。ただ同時に、アーカイヴとキュレーションの相互影響や「視差」の問題など、現実が、織りこまれた襞のように複雑な様相を呈していることもまた、ここまで概観してきた通り、無視されてはならない。大局的には一方向的な「包摂」であっても、細部においてそれは、微細な力学の多方向的な交通として生起している。抽象論ではなく、具体的な現象を丁寧に見つめるほど、そのことははっきりとしてくるはずだ。

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ロサンゼルス現代美術館で開催された「ART IN THE STREETS」展の入口(撮影:大山エンリコイサム、2011年)

4 「/=隙間」に繁茂するサインの群れ

 ここで一度、議論を転回して、次の問いを投げかけたい——グラフィティ文化において、アーカイヴされているものは何か。それは「署名」である。グラフィティとは、みずからの名前を拡散的に公共の場にかき残していくこと、つまり「Name Writing」にほかならない。これは何を意味するのか。署名とは本来、ある生産物の「脇」に記載される。それは通常、あるプロセスが生産物としての輪郭を与えられ、社会へと登記されることを可能にする、言わば「完成」を示唆する徴である。ゆえに、それはアーカイヴ化の指標にもなる。ふたたび上崎の知恵を借りるならば、以下に述べられる「記載の場所」または「アーカイヴの肌理」こそ、署名が住まうべき空間ということになるだろう。

 カタログの各頁に垣間見られる余白、ポスター(の図版)によって占められていないこの場所は、ポスター(の図版)にとっての「外」である。そこには、各々が何のポスターなのかという説明が書き込まれており、この記載は慣例的に「シルクスクリーン、紙」あるいは「オフセット、紙」といった表記や寸法の表記を伴う。(中略)この余白が、本稿がその観測地点から目視している第二の「記載の場所」である。そして、各頁の内容と一緒に何度か印刷機を通ったこの余白の肌理こそが、アーカイヴの肌理である 。

 60年代末、グラフィティが誕生したときに起ったこととは、生産物とそれを外から補完する署名という主従関係が蒸発し、生産物なきままに署名のみが氾濫するというラディカルな事態である。その戦略は、生産物の「脇(余白)=外」という定位置を飛び出し、またキャンバスや美術館、印刷物をも飛び出し、リテラルな「(屋)外」としての「都市空間」をその舞台に選ぶことだけではない。むしろ、都市空間を含むあらゆる「外」がシステム内に包摂され、帝国的に管理される外部なきポストモダン社会のなかで、そこかしこのの「隙間」を標的にイリーガルな署名を穿ち、占拠することにこそ、そのミッションがある——奥まったビルの路地に、屋外広告の裏側に、階段の手すりに、サインの群れは滑り込む。上崎が言うように「アーカイヴは、/アーカイヴ/アーカイヴ/////……と多層化していく 」のであれば、グラフィティが企図するのは、アーカイヴが依拠する「/外」という階層化運動の撹乱、あるいは、その特権的な外部視点の消失である。  各階層を分離しつつ維持する線状の「/」は、氾濫するサインたちの違法な介入によってわずかに面的な「隙間」へと押し広げられ、その中立的な性格を失い、闘争の場としてみずからを定義し直す。ここで「/アーカイヴ/アーカイヴ/////」の区分は、イリーガルに拡張する「隙間=/」によって倒壊してしまう。

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70年代ニューヨーク地下鉄のグラフィティ。 撮影:Henry Chalfant 出典:Craig Castleman “Getting Up: Subway Graffiti in New York”, The MIT Press, 1982

 これは、都市空間で起こることに限定されない。上崎が「記載の場所」と呼んだ印刷物の余白もまた、それらが生い茂る「隙間」なのである。正しくは、「図版」と「余白」の主従関係を無節操に越境しながら、繁茂は進行する。それをグラフィティと呼ぼうが、署名と呼ぼうが、落書きと呼ぼうが、呼称はたいした問題ではない。重要なのは、このことが、アーカイヴとキュレーションの関係よりもさらに根源的なもの、すなわち、アーカイヴされ得るものと、され得ないもののボーダーへとわたしたちの思考を誘っている点にある。詳述は避けるが、それは匿名の問題に、厳密に言えば、匿名性という概念で囲い込むことのできる対象と、そうですらないもののあいだの、きわめて困難な線引きをめぐる問題に直結している。しかし、そのような緊張感に満ちた状態は持続しない。上述の描写は、おもに60年代末から70年代前半にかけ、ジャン・ボードリヤールが「からっぽの記号」と形容したグラフィティの胎動期にのみ当てはまる 。それ以降、文化の発展と成熟とともに、グラフィティはコンテンツとしての実体を強固に持ちはじめ、同時にある種の制度性を帯びてもいく。一方では、作家性に根差したレタリング のデザインを競うライター同士の表現の空間として、他方では取り締まりの標的である社会問題として、そのプレゼンスの高まりとともに、グラフィティは立派なアーカイヴ対象となっていった。

5 終わりに——署名された署名

 たとえば、次のようなことが起こるようになって久しい——ワイルドスタイル の見事なマスターピース がある高架下の壁にかかれている。それは、最大限のデザイン性と技術を注ぎ込み、制作に時間をかけられるように人目につかない場所を慎重に選んだうえで、そのライターの「名前」を複雑に崩したレタリングで表現したものだ。立体的なレタリングがさらに効果的に浮き出て見えるように、背景は黒く塗りつぶしてある。そして、そのバックグラウンドの右下には、作品の完成日とともに、きちんと作家の「署名」が記されているのだ——それは、署名にさらに署名が付されるという、いささか不思議な光景である。

 こうなれば、あとはもう矢継ぎ早にことは進む。署名に署名が付されたこのマスターピースはきちんと撮影され、アーカイヴ化される。その作家の作品集が刊行されれば掲載され、そこにはもうひとつの署名が、図版の外側の余白に記されるだろう。しばらくして、その本は美術館ライブラリの「ストリートアート」の書架に収蔵される(あるいは著名な作家になれば、彼/彼女自身のセクションがあるかもしれない)。そして、いつか回顧展が美術館で企画されることになれば、それらの写真や書籍は参考資料として展示されるはずだ。もちろん、その脇に、さらにもうひとつのキャプションをきちんと携えながら。

 そう、いつだって「脇」こそ、署名の本来の住処なのだ。

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アーカイヴとキュレーション

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